船村徹記念館

日光市ゆかりの日本を代表する作曲家。
昭和7年、栃木県船生村生まれ(享年 84歳)。

世に送り出した作品は約5500曲。
「柿の木坂の家」「早く帰ってコ」「あの娘が泣いてる波止場」「矢切の渡し」「おんなの宿」「王将」「新宿情話」など、多くの人たちが、折りにふれて口ずさむ歌の数は、圧倒的に多い。

 

大ヒット曲「別れの一本杉」は、船村徹が23才の時の作品。作詩した高野公男は2才年上の25才だった。
船村は当時、銀座の流しをして歌い、キャバレーのバンドマスターもしていた。
昨今のシンガーソングライターの“はしり”だったろうか。

 

高野は大ヒットの翌年、昭和31年9月8日に26才の若さで亡くなる。船村は24才だった。
その日以降、日本の作曲界を代表する今日まで、彼は高野の意思を歌づくりの中心に置き続けている。

「二人の出会いから別れまでは、わずか7年でしかない。しかし、その7年が私の原点であり、全てのような気がする。高野は今でも、私の中で生きている」
「高野の無念を思えば、私は彼の分まで生き、二人で誓い合った夢に向かって、歌を書き続けることが、自分の使命だと思っている」

船村は常々、こう語っていた。
船村の一年は、9月の高野の祥月命日の墓参りから始まる。
没後60年の今日まで、それが変わることはなかった。

 

日本人は信義を貴び、友情に厚い民族である。
故郷を愛し、家族と相和し、古い良いものを大切にする。温故知新の賢明さも持つ。

しかし、船村の高野を追悼する思いの熱さは、一個人への友愛に止まってはいない。
船村が高野から受け継いでいるものは、日本人としての身の処し方から歌づくりまでの、独特の美学であり、特異な美意識なのだ。

 

功なり名遂げた船村の胸中に揺れていたのは、「24才の別れ」の痛恨と「わずか7年の交友」で体得した全人生そのものだった。
だとすれば彼が紡ぎ出したおびただしい数のヒット曲の核にあるものは「愛」であり「祈り」だろう。

彼の作品が日本人の心を打ち、外国の人々の心にも通じるのは、彼が日本の歌、つまりは日本のソウルミュージックの稀有の書き手であり、作品に「祈る」心の熱さが託されているせいだろう。